数年後の限良。



 魔がさす。魔がさした。
 限は視界のはじをそんな言葉がかすめていった。中学だか高校だか、国語の授業のどこかで習った。簡単な言葉だから、もしかしたら小学生の頃だったかもしれない。まともに学ぶ気などなかったから授業はいつも寝ていた。はっきりいつと思い出せないのはそのせいだろう。
 言葉の意味は、「ふと邪念が起こる。出来心を起こす」。
「限?」
 遠慮がちに袖をひかれて限はようやく呼ばれていた事に気づいた。すぐ隣に、寄り添うほど近くにまっくろい目があった。良守だ。
「どうかした?さいきんへんだよ。なんかあった?」
「べつに」
「またそれかよ。…まぁ、なにかあったって、俺にはなんにもできないけどさ」
 良守は肩をすくめると、ひょいと立ち上がった。そんなことはない、おまえはただそこに居るだけで良いのだとそう言って抱きしめたかったが、胸にたまった罪悪感が気道をふさいでしまった。限は狭いアパートの部屋をおぼつかない足取りで横切っていく良守をむっつりと黙り込んだまま見送った。
「ね、お腹すいてない?俺なんか作るよ」
 台所に立った良守の手がそろそろとコンロの上をさまよった。
「ラーメンくらいなら俺にも…」
「いい」
 たまらなくなった限は音もなく立ち上がり、良守の横をすりぬけた。真横を移動する限に、だが良守の目はまだ部屋の奥にむけられていた。今の良守は目が見えない。真っ暗闇の中、限だけを頼りに暮らしている。限がそうしむけたのだ。
「平気だって、これっくらい出来るようならないとさ」
「いいから、お前はおとなしくしてろ」
 スチールの扉を開けながら言う。良守がびくりと玄関のほうに顔をむけた。
「限…っ」
「出かけてくる。絶対に外に出るなよ」
「まって限、俺も…」
「だめだ」
 限は追いすがってくる良守をふりはらう強さでもって扉を閉めた。良守はまだ何か言っているようだったが限はかまわずドアに鍵をかけ、さらに隔遮のまじない印をドアにむかってきった。印が成ると同時にドアの向こうから洩れてくる匂いや物音がぴたりと止んだ。追っ手のことを考えたらこんなものでは気休めにもならないが、ないよりはましだった。
限はフードを目深にかぶり、階段をおりていった。

 良守の首に巻きついていた妖は羽虫みたいな外見どおりにささいな妖気しかなくて、だから限は最初なにを遊んでいるのかと思った。
あたりにはまだ良守の作った大小さまざまの結界が浮かんでいる。良守に何かあれば結界も消えてしまうはずだ。限は手ごろな結界を足場にえらんで烏森中学校の屋上から飛び降りた。
「おい」
 地上三メートルほどのところに浮いていた結界の上から声をかける。うつぶせてあちらを向いた良守の背中は、最初にあった頃にくらべてずいぶん大きくなった。だが限は良守の倍くらいの勢いで育ったため、ふたりの体格は差がつく一方だった。二十歳をこえたいまでは、良守の頭はちょうど限の顎のあたりというあんばいだ。良守はそれがどうにも気に入らないらしく、なにかにつけて限の長い足を蹴る。
「おい、なにをさぼっている」
 良守はぴくりともしない。そういえばあのこうるさい妖犬が見当たらず、限はそれでようやく何かあったかと地面におりたった。結界はまだ消えていない。
「おいこら犬、どこだ」
「ここだよ」
 限に答えたのはいまにも消えてしまいそうな声だった。声のするほうに目をむければ枝葉にうもれるように斑尾の白い姿があった。いまにも消えてしまいそうなほど妖力が薄まっている。
「あんた、ぼさっとしてないで早くあれをなんとかしとくれ」
「何があった」
「いつものことだよ。妖さ」
「…ふん」
 見れば良守どころか妖も気を失っているようだった。限は良守にまきついた妖にてのひらをかざした。こんなちいさな妖など撫ぜるほどの力もいらない。
「まちな」
 斑尾の声にとめられて、限は何だと犬の両目をにらみつけた。何とかしろと言ったのは当の斑尾だ、止められるのは心外だ。
「殺しちゃだめだよ。そっと、そうっとそいつを良守から引き離すんだ」
「?」
「そいつは記憶を食う妖だ」
「記憶?」
 限は斑尾に言われるままにそろそろと妖の羽をつまんだ。ひっぱると、蝶か蚊の口みたいな細長い針が良守の盆の窪のまんなかに刺さっているのがあらわになった。限は不愉快になり、舌打ちをした。すぐにも良守の身体からそれを抜きたかった。
「なにをやってるんだこのバカ」
「乱暴にしないでおくれよ。良守はずいぶん記憶をぬかれちまったから、ちゃんと戻さないと大変なことになる」
「戻す?」
「ああ、そいつの腹から、奪われた記憶を取り出すんだよ」
 限はひょろひょろとした妖の、そこだけまるい腹らしいあたりを見おろした。横たわる良守の顔色はふだんとまるきり変わらず、妖がまきついていまければただ眠っているみたいだった。
「この針みたいなのは抜いていいのか」
「ああ、折らないようにね。すぐに時子がくるから、それまでそいつを捕まえておいとくれ」
 もう一組の結界師が見当たらないのは直接呼びに言ったのだろう。妖にとりつかれたままの良守を放っていくのは感心しない。限は顔をしかめて斑尾をといつめた。
「他の妖がきたらどうするんだ。式をとばせばいいだろう」
「あんたがいるだろう」
「…俺?」
「『あいつが来るから平気だ』って、その子が言ったんだよ」
 斑尾のいう「その子」とは良守のことだろう。式じゃあ細かい説明ができないとかなんとか、斑尾はまだぶつぶつと続けている。
 限は良守の首に刺さった妖の針を指でつまんで引き抜いた。思っていたよりも長く、先のほうは糸のように細くなっていた。ここから「記憶を食う」のだろう。
「本当に食われた記憶ってのはもどせるのか」
「…多分ね」
「おい」
 斑尾の不確定な言いように限は気色ばんだ。
「取られた記憶はまるまるそこにあるけど、きちんと戻るかどうかはそれを施す術者の力量によるんだよ」
「力量…」
「あたしだって心配さ。そいつは大切にしている記憶から喰らっていくんだ。いまの良守はきっとあたしのこともあの男のことも忘れてパーになってるよ」
 それはちょっと気味がいいねと斑尾は笑った。斑尾があの男、と言い表すのは正守だということを限は知っていた。身体のいちばん底がどきっとした。
「…頭領のことも?」
「忘れてるね。たぶんあんたのこともわかんないんじゃないかね。気を失う前はかなりやばい感じだったし。あれでもあいつって誰だっけ、って、半べそかいてたわよ」
 すこし力が戻ったのか、斑尾はのそりと枝のうえに立ち上がった。さきほどまで半透明になっていた尻尾もちゃんと見えるようになっていた。
「とにかく、その妖を無傷で捕らえられてよかったわ。でなけりゃたいへんなことになってた」
「無傷、で」
 限は爪の先につまんだ妖をじっとみつめた。だらりと脱力した妖のまるい腹には良守の記憶が詰まっているのだという。良守の『大切な』記憶が。
「なければ、どうなるんだ?」
「ええ?」
「この妖が四散したら、どうなるんだ」
「…そりゃ、あの子の記憶は失くなっちまうってことさ」
 限にとってそれはつまり、正守を知らない良守が手に入る、と、そういうことだった。
 限がどんなに想っても、どれほど親しくなっても、良守の真ん中深くに居座る男。良守が生まれたときからその傍らにいた実の兄で、そうして良守の恋人、正守。
「失くすのか」
良守の、正守との記憶を今、限はその手に持っていた。
「ちょっと…あんた」
 斑尾が言い終わらぬうちに限は跳んだ。やっと動けるようになった程度の斑尾ではどうにもならず、叫び声さえのこせずに限の爪に切り裂かれて消えてしまった。本体から復活するにしてもここまでは距離がある。それほどあわてなくてもいいだろう。
 限はくったりと気を失ったままの良守の腹をすくいあげると、ひょいと自分の肩にひっかけた。
 幸運か不幸かはわからないがチャンスが転がり込んできた。良守を手に入れるチャンスが。
 限はくだんの妖を手のひらにのせた。しばらくながめて、それからおもむろに握りつぶした。
 限の心に、魔が差した。


 
2007/05/17
 アニメ限がカッコよくてつい。
 勢いにまかせて書いたやつは読み返すとアイタタタ〜…なことが多いです。凹む。